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こんにちは。つきのまほうです。

東日本大震災から一年を迎えました。
一年前の今日・・・昨日のことのように蘇ります。

犠牲になられた方々へのご冥福と
今後の復興への祈りをこめて黙とうを捧げたいと思います。

まだ癒えされぬ傷を抱えたまま
不自由な生活を強いられている方々のために
1日も早い復興を心から願っています。

2011年3月11日
思いもかけない震災に見舞われ
多くの命が失われたその日

被災地で新たな命が生まれてました。

奇跡的な命を授かった子供たちが
今日 満一歳のお誕生日を迎えますピカピカ

失われたものだけじゃない
生れてくれた命に感謝したいと思います。

亡くなられた方々の分まで命を輝かせて
元気にたくましく成長して
未来につなげていってほしいなと思います。

去年のあの日・・・
無事に生まれてきてくれて
ほんとうにありがとう。ありがとう。


この子どもたちに「生まれてきてくれてありがとう」
という気持ちをこめて そして
未来へのメッセージをこめた映像をお届けします。

ハッピーバースデー3.11- 日本ユニセフ協会
『名も知らぬ花のように』
BGMの音楽はYae(やえ)・・・加藤登紀子 次女


3.11に奪われたたくさんの命。
でも同時にたくさんの命がこの世に誕生しました。
たくさんの愛に支えられて。

失ったものは多いけれど 何が一番大切なのかを感じることができました。

一番大事なのはお金や地位などでは絶対ない。
家族や地域が共に幸せに暮らすことです。

この小さな子どもたちに 私たちは何をしてあげられるだろうか?
これからずっと先の未来まで子どもたちの笑顔を絶やさないために。
by Yae

失われたものだけじゃない
『2011年3月11日 4時17分生まれ 宮城県 南三陸町 佐藤 春晴』
震災の日の早朝に生まれる。父・佐藤健司さんと祖母・和子さんは、春晴くんが生まれたおかげで、その日、仕事を休み、津波に飲まれず、命を救われた。「この子が生まれてきてくれたから、みんな助かったんです。本当に生まれてきてくれて、ありがとう、って、家族みんなで言っているんです」と、母・ひろみさんは微笑む。父の職場である南三陸町の老人ホーム、慈恵園では、50名近くの方が亡くなったという。震災後、健司さんは、無事だった方のお世話と、ご遺体の確認に追われた。「退院したときには、よく晴れた天気で、本当に名前のような天気。たぶん一生忘れることはできないと思います」と健司さんは言う。

失われたものだけじゃない
『2011年3月11日 7時48分生まれ 宮城県 石巻市 永尾 隆東』
出産後、石巻の病院に、父・永尾隆宏さんが到着してから、しばらくすると、大きな揺れが来た。「危ないから、動かないでください」と叫ぶ看護士さんの声が聞こえた。看護士さん自身も廊下で立てずにいるのが見えた。「津波が来ます」という市内放送が繰り返し流れていた。夕方になると、病院の1階が浸水。2階の階段から下を見ると、踊り場まで水が上がってきていた。母・伯子さんは、息子を抱いて、3階のランドリールームに上がり、毛布に包み、ずっと体温計を見守っていた。屋上に出ると、近くの建物で燃えているのが見えた。そこから、5日間、病院から出られなかった。

失われたものだけじゃない
『2011年3月11日 11時4分生まれ 宮城県 仙台市 松橋 玲奈』
出産前に、赤ちゃんの胸に水が溜まっていることが分かり、設備の整った宮城県立こども病院で出産。出産後、大きな揺れがくる。父・松橋宏記さんは、利府町の役場に勤めているため、震災後数時間してから、役場に向かい、震災の対応に追われる。母・明香さんの食事は病院から出たが、家族の分は支給されないため、炊き出しや水を探して回る。お湯が出ないので、玲奈ちゃんの体がずっと拭けなかったが、「被災された他の方と比べたら、たいしたことないですよ」と明香さんは笑った。

失われたものだけじゃない
『2011年3月11日 12時4分生まれ 宮城県 仙台市 木下 瑞萌』
昨年8月頃から、切迫流産の恐れがあり、母・木下京子さんは、入退院を繰り返した。3月11日に帝王切開。震災後、赤ちゃんの検査中に、地震が起きた。宮城県立こども病院は、自家発電の設備があったため、電気は切れなかった。出産後、瑞萌ちゃんは、NICU(緊急集中治療室)に入る。京子さんは、「たくさんの管をつけられている娘を見ると、つらかった」と話す。1週間後に、赤ちゃんは手術。「余震が心配だった」と京子さんは振り返る。現在は、母子ともに健康。「瑞萌」の「瑞」は、天がくだすめでたい印という意味。萌は、始まる、あらわれてくる、の意味。震災後に、家族みんなで決めたという。

失われたものだけじゃない
『2011年3月11日 13時13分生まれ 宮城県 仙台市 西村 輝道』
前日の午後4時頃から、母・西村彰子さんは、出産のため、仙台市内の病院に入院。午後過ぎにやっと生まれ、ほっとしているときに、地震が起きる。分娩台の上で、初乳をあげようとしていたところだった。彰子さんが輝道くんにとっさにおおいかぶさった上に、母と助産師さんもおおいかぶさってくれて、守ってくれた。その日の夜は停電。暖房も止まっていて、雪が降っていたので、とても寒かったという。父・弥さんと電話がなんとか通じたとき、弥さんに、「輝道を産んでくれて本当にありがとう」と言われて、涙が出た、と彰子さんは振り返る。どんな子どもに育ってほしいですか?と彰子さんに聞くと、「命の大切さがわかるような子に育ってほしい」と答えてくれた。

失われたものだけじゃない
『2011年3月11日 14時7分生まれ 宮城県 白石市 山﨑 りら』
宮城県白石市の病院で生まれる。帝王切開の手術が終わり、母・山﨑尚子さんが、病室に戻るエレベーターの中で、震災は起きた。りらちゃんは、1人で新生児室にいたが、無事だった。外では、自衛隊のヘリコプターは飛び回っているのが分かった。病院から出られず、日を追うに連れて、食事が減っていった。おむつなどの救援物資を、友人がネットで呼びかけて、見ず知らずの方がたくさん送ってくれた。「本当にありがたかったです」と尚子さんは振り返った。名前は、赤毛のアンの娘、リラから。震災前から決めていた。震災にちなんだ名前を、と周りからは言われたが、あえて、そのままつけたという。

失われたものだけじゃない
『2011年3月11日生まれ 15時13分生まれ 福島県 二本松市 川口 陽生』
福島市内の病院で、陣痛の最中に地震は起きた。母・川口由紀子さんは、慌てて陣痛室から病院の駐車場に避難した。駐車場のクルマのシートを倒し、布団を敷いて、急作りの分娩室ができあがった。助産師さんが、タオルを、病院まで戻って探してきてくれた。「先生や助産師さんが落ち着いていて、ほんとうに助けられた」と、由紀子さんは振り返る。お湯はなく、沐浴はできなかった。生まれた時刻を忘れないように、と、助産師さんが、マジックで陽生くんの足に時刻を書いてくれた。この日、たくさんの方が亡くなったので、生まれてきてくれてありがとうという気持ちを込めて、名前には、「生きる」という字を入れたかったという。

失われたものだけじゃない
『2011年3月11日 15時23分生まれ 宮城県 仙台市 瀬川 虎』
母・瀬川史佳さんが、陣痛室にいるとき、地震が起きた。雪が降る非常階段を降り避難したが、陣痛がおさまらず、病院の受付の奥にある簡易ベッドで、急遽、父・誠さんが、史佳さんの背中を支えるようにして出産。誠さんは、そのときのことを鮮明に覚えている。「外は雪が降っているし、陣痛は収まらないので、何にもないですが、ここで生みましょう、ということになって。あきらめそうになる妻に、がんばれ、大丈夫だ、と繰り返し言っていました」。生まれてから、外に出ると、避難していた人たちが、拍手をしてくれた。書くものもなく、産まれた時刻は、みんなで覚えることにした。

失われたものだけじゃない
『2011年3月11日 15時26分生まれ 福島県 福島市 橋本 栞』
震災が起きたとき、母・橋本幸枝さんは、福島市内の病院の陣痛室の中にいた。同じ病院にいた川口由紀子さんと同じように、駐車場に緊急避難し、クルマの中で出産した。福島の原発の事故のことは、ニュースで知ったが、そのときは、それどころではなかったし、こんな風になるとは思いもしなかった、と、幸枝さんは振り返る。現在、福島市で、子育てをしている。栞ちゃんにどんな未来を迎えてほしいか?という質問をすると、しばらく考えた後、「あたりまえに過ごせるっていうのが一番良いです。どんな未来っていうよりも普通に生活できたら一番ですよね」と言葉を選ぶように答えてくれた「栞」には、目印、道しるべという意味もある。「3月11日以降、この子が、名前の通り、道しるべになったような気がする」と幸枝さんは言った。

失われたものだけじゃない
『2011年3月11日 15時56分生まれ 宮城県 仙台市 石田 泰造』
3月11日の午後、震災が起きたちょうどそのとき、母・石田雅美さんは、仙台市の家で陣痛が激しくなり、仙台市内の近くの病院に電話をかけているところだった。余震のため、揺れは収まらなかったが、陣痛が激しいので、すぐに病院まで行くことに。病院に着いたが、分娩室も入れず、電気もなく、診察室の奥で、コートとジャケットを着たまま、出産した。「へその尾が首に回っている、と言われたけれど、無事に生まれました。大変だったけれど、もう、なるようにしかならない、と思って。大きくなったら、いつか、この子に、お母さんは頑張ったんだよ、と聞かせてあげたい」と雅美さんは明るく笑った。

失われたものだけじゃない
『2011年3月11日 16時23分生まれ 青森県 青森市 泉 凛』
母・泉優子さんは、その日午前中から、青森のクリニックの分娩台にいた。生まれる直前に、震災が起き、停電になった。「部屋がどんどん暗くなっていくので、早く生まなくちゃいけないと焦った」と優子さんは振り返る。停電していたため、出産時の体重は計れなかった。分娩台も電動なので、高いところから降りなければいけなかった。その夜は、余震が続く中、懐中電灯ひとつで過ごした。「人の痛みがわかるような優しい子に育ってほしい」と父・知弘さん。「もう健康でさえいてくれれば。奇跡のような感じで、偶然が色々と重なっているような気がするので」と優子さん。地震の中、産まれてきたから、これからも凛々しく逞しく生きてほしいと願って、祖父が「凛」という名をつけた。

写真展:ハッピーバースデイ 3.11 後援:日本ユニセフ協会より借用いたしました。

何も語らなくても
赤ちゃんのキラキラした瞳が
あどけない笑顔が 無邪気な表情が
そのちいさな存在のすべてから
かけがえのない人の命の尊さ 大切さ
そして・・生きる希望や大きな大きな勇気をもらえますピカピカ

こどもたちの瞳に映るこれからの日本の将来・・・
今 わたしたち一人一人が問いかけられているような気がします。

今日もご訪問いただきありがとうございますニコ



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Posted by つきのまほう at 14:46│Comments(0)ツキを呼ぶ情報
 
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